ローマから列車でフィレンツェへ〜
以前に訪れたオルビエートの街を遠く小高い丘の上に眺めながら つい、うとうとと眠ってしまった。 トスカーナの丘には オリーブ畑やブドウ畑が広がり、ゆったりとした時間が流れている。 もう2時間もすれば到着する15世紀ルネッサンスの都・フィレンツェ を彷彿とさせる風景だ。 ボッティチェリ・ミケランジェロ・マザッチョ・ジョット・ラファエロ・メディチ・・・・・。 ルネッサンスを彩ったいろんな名前が頭を駆け巡っていく。 一度で全てを見れるわけもない、古都フィレンツェ。さて、今回は5日間の滞在だが、何を求めて 歩いてみようか。

それはもう、街中が宝石箱のようなフィレンツェ。特に私のような歴史フリークにはたまらない。 どこを見ても15世紀に花開いたルネッサンスの遺産があり、トスカーナの小さな町に時間を 飛び越えて息づいている。

ルネッサンスはサンジョバンニ洗礼堂から始まった。 フィレンツェで起こったルネッサンス、日本語では文芸復興と訳されている。その意味は芸術を 権力者から普通市民の手に取り戻すことだったのである。 ルネッサンスの先駆けとなったのは、 画家のジョット(ジョットの鐘楼を設計し、アッシジの 聖フランチェスコ教会の壁画も描いている)ともいわれるが、 その扉を確実に開けたのは、サンジョバンニ洗礼堂の扉のコンクールだった。
この洗礼堂は、ヨハネを称えて建てられたものだが、当時フレンツェ市民は生まれた時誰もがここで洗礼をうけた。 あの有名なダンテ(13世紀の詩人)も「わがうるわしのサンジョバンニ」と存在そのものを称えているほど、フィレンツェ市民の 心のよりどころだった。 そのサンジョバンニ洗礼堂の扉のコンクールが、文字通りルネッサンスの扉を開けることになった。
1401年、世界で初めてコンクールという形式で扉の彫刻を決めることになった。 それまで芸術とは、ひたすら権力者の希望をかなえることが一番の使命で、時に政治や策略に利用されることもあったという。 が、コンクールは違う。 芸術家にとって個人の力を十分に発揮できる、そんな場ができたのだ。
コンクールのテーマとなったのが、旧約聖書の「イサクの犠牲」だった。 「イサクの犠牲」とは、息子を天に差し出すようにとの神の声に、苦悩しながらも従おうとするアブラハムの話。 最終選考に残った同じ24歳のブルネレスキとギベルティの先品は、全く違った様子を描いていた。 ブルネレスキは、今まさに息子を殺そうと、ナイフを振り上げる場面を躍動感たっぷりに描いたが、当時は衝撃的すぎて審査では不評だった。 一方ごベルティはその様子を穏やかな情景として描いた。結果はギベルティが採用されることとなった。 この扉は”北の門”と呼ばれている。
その後もギベルティは東門を制作、黄金に輝く扉でその前で記念撮影する観光客は絶えない。 こちらのテーマは「アダムの創造」 ミケランジェロはこの扉を、”天国の門”と称えたという。
●ルネッサンスのその後
先のコンクールで負けたブルネレスキは、建築の勉強のためにローマへと旅立つ。 ローマではフォロ・ロマーノに足繁く通い、建築物の研究をしていたという。 そして、再びフィレンツェに戻り、難しさゆえに途中で座礁していた、サンタ・マリア大聖堂の クーポラの建築を手がけて見事に完成させたのである。他にもメディチ家の墓標サン・ロレンツォ教会を設計している。
ルネッサンスはその後も受け継がれていく。
初期の画家、マザッチョやフィリッポ・リッピ、 それを引き継ぐダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ラファエロ。 数知れない巨匠がこの小さな街で次々と芸術の花を開かせ、素晴らしい作品を残していった。
本当に何日いても飽きない。見つくせない。フィレンツエとはそんな街だ。 <文化とその背景の歴史をゆっくりと味わいたい街なのである> 2001年のヒット映画『冷静と情熱のあいだ』はフィレンツェを舞台にしたもの。 「この街はルネッサンスの作品を修復することで生きている」といったセリフが思い出される。 本当にそうなのだから。そしてそのことに素晴らしい価値があるのだから。
フィレンツェ2回めの私がどっぷりつかった4日間、歩き回った場所を紹介します。

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フィレンツェ紹介ページの写真は、全て2000年6月に撮影したものです。