ハンガリー共和国の首都、ブタペスト

ドイツからずっと東へ東へと流れてきたドナウが、ここハンガリーに入って急に南へと流れを変える。
これをドナウ曲がりと呼び、起点のエステルゴムという街はハンガリーの誕生の地として知られている。
ブタペストから、この地方の都市を巡る、ドナウ・ベントというオプションツァーもでている。


しばらく、ドナウの流れに沿っていくと、今回の旅先、ブタペストに着く。 1849年、ドナウ河にくさり橋がかけられ、王宮のあるブタ地区と経済の中心のペスト地区が結ばれた。 その後、オーブタも一緒になってハンガリーの首都、ブタペストが誕生した。

ドナウを中心にその両側に広がるこの街は、ドナウ流域で最も美しいとされ、 <ドナウの真珠>と呼ばれている。夜には、橋にイルミネーションが 灯され、それは美しい姿をみせてくれた。 ヨハン・シュトラウスの美しき青きドナウも、ハンガリーの詩人ベックの一句からきているのである。
くさり橋を見下ろす、ゲッレールトの丘や漁夫の砦からブタペストの街を一望するとゆうゆうと流れるドナウと共に、ゆっくりとあわてない街がそこにあった。

東欧のハンガリーというと、ヨーロッパの中でもパリやロンドンのようなポピュラーさはないが、 なぜか日本に近いものを感じてしまう。 もしかしたら、ハンガリー人のルーツが、アジア系騎馬民族だからだろか? 9世紀頃、ウラル山脈の東からやってきた、マジャール人がこのドナウ流域に住み着いたのがはじまり。 もっとも、その前に2度アジア系のフン族とアヴァール族が来ている。ハンガリーという名もこの最初にきたフン族の名からきているという。 ハンガりー初代の王は、聞きなれないがイシュトヴァーン1世 、エステルゴムで洗礼を受け、ローマ法王から王冠を受けてキリスト教国家になった。 10世紀ごろのことで、その後、マーチャーシュ王によって統治され繁栄の時を迎えるが、 彼の死後、ハンガリーは多難な時代へと入って行く。

なかでも、1526年のモチーハの戦いでは、オスマン・トルコ軍に大敗し、 王位もオーストリアのハプスブルク家に渡り、それから150年もの間トルコの支配下に入ることになる。 この戦いでは、多くの死者を出しドナウがその血で真っ赤に染まったという。 その後は、ハプスブルク家が支配し、オーストリア帝国の属州となったが、 1867年の<和協>アウグスライヒによって自治権を獲得し、オーストリア・ハンガリー二重帝国をつくった。 ブタペストは、この時ウィーンと共に首都となる。

第一次世界大戦中はハプスブルク帝国からの独立運動がさかんになるが、 じつは大戦と同時にハプスブルク帝国は崩壊、第二次世界大戦ではドナウ川をソ連が支配するようになり、ハンガリーも東側の体制に入っていく 。1956年、ハンガリーは東欧初の反ソをかかげ、ハンガリー動乱ソ連との市街戦をこえて独自の自由化へと1歩を踏み出した。 そして、1989年の東欧自由化を経て、さらに社会主義国とは思えない 活気ある街へと変わっていく。

こうしてみると、近隣の大国の利益や思惑に翻弄されてきたハンガリーがみえる。 ハンガリーの人口は、約1000万人余り、国の面積も日本の4分の1、ブタペストは、なんと神戸市と同じくらいと小さな都市だけど、 東洋をルーツとしたその街は、訪ずれる前にイメージした社会主義国の重々しさはさほどなく、ドナウを中心にして落ち着いたたたずまいをみせる街だった。

1987年、この街は世界遺産に指定されている。



参考文献:ドナウ紀行・加藤雅彦著、岩波新書
ハンガリー小史
ハプスブルク家の悲劇・桐生操、kkベストセラーズ
週間 地球旅行 ハンガリー ブタペストとドナウ紀行、講談社
個人旅行 オーストリア、プラハ、ブタペスト、昭文社