テンペラ画の悲劇

完成からすぐ、20年後の1517年には絵の表面は白っぽくなって、壁全体をカビがおおっていた。
また、 食堂の大気中の湿気と壁自体の湿気で壁にひびが入り、そこから絵の具がはがれおちていった。 オリジナルの絵がわからず、ただのしみになっている部分も多くあった。

どうしてこういう事がおきたのか?
ダ・ヴィンチはこの絵を、フレスコ画ではなく、壁画には適さないテンペラ画で描いたが、 これが、悲劇のはじまりだった。 当時、壁画はフレスコ画で描くのが一般的だった。 フレスコ画とは、壁に漆喰をぬりそれが乾ききらないうちに、 一気にその部分に絵の具(顔料)を塗り込んでいく方法。
こうすると、絵の具は壁に吸い込まれて一体となって安定する。 この工程の中で中断することはできない。 だが、ダ・ヴィンチは多忙であったため、一気に描き上げる時間をとれなかったらしい。

そこで、漆喰の上に白鉛をぬって壁にまくをつくりそれを下地にして、 絵の具を水やニカワ、卵でといて顔料をつくり、それで描くというテンペラ画法をとった。 これでは、キャンバスの上に絵を描くのと同じ。 壁に絵の具は溶け込まず、時間とともに絵の具ははがれてしまう。

食堂にあったことも、絵の損傷に輪をかけた。 湿気で、壁にヒビがはいったり、カビが繁殖したからだ。 100年後には、ほぼ半分がもとの図柄が分からないほどになっていた。